天ノ森(下小野榛原靈畤・墨坂神社旧社地)関連史料集 

 

 

◎『奈良縣宇陀郡史料 全』(奈良縣宇陀郡役所、大正六年十月三十日發行)より

 

 第二編 皇室史蹟→墨阪→〔口碑〕

 神武天皇此地より西兄磯城を攻め玉ふに當り西峠乃ち墨阪に篝火を焚き以て勢威を張り

玉へり、會弟猾なるもの策を献して曰く宜しく篝火を消し以て弱を示し巧みに敵を此地に導き

便宜彼を計らんには如かじと天皇之を喜みし玉ひ乃ち宇陀川の水を堰き止め篝火に注ぐ賊果

して衆を盡して来る、此時宇陀川の水溢れて東北に流る其地今に水越の稱あり。

 諸書大同小異のみ現時縮小して土地臺帳に反別五畝拾七歩のみ存在せり、墨阪に隣接して縣道の

北芝生の地あり天の森と稱し鳥見山中靈畤の跡と傳稱す、上古は茲に墨阪神を祀れるを文安六年九

月現時墨阪神社の地に遷座せりと云ふ而して墨阪神社の號は地名により來たるものたるを知る可

し。(後略)

 

 第二編 皇室史蹟→鳥見靈畤址

 (前略)

 (中略)

〔口碑〕

 (中略)

  天の森 天の森は墨阪の中にあり賊軍猖獗皇軍頗る困む、會天陰り頻りに小石を降らし獨り

 賊の面に濺ぐ小石其形零餘子に類するを以て零餘石と云ふ今尚此地より産す、又金鵄あり天皇

 の鎗に止まり以て賊の目を眩す、始め鵄の立つ所今之を鳥立と稱す、賊虜轉倒能く起つものなし
 
 皇軍之を鏖にす、天下一統の後天皇其威霊を感じ玉ひ此所に天神を祈り玉ふ故に天神の森と云
 
 ふ、後人此靈蹟を恐れて乃ち社祠を其地に立つ、これ所謂墨阪神社なり、當時大和一の大社なりし
 
 と伝ふ、聖徳太子の時東夷大軍を以て此地に攻め來る太子當社に祈願して賊を征す、時に一身五
 
 眼のもの白馬に跨り弓を張り賊を退治す、太子これ天神の威霊なりとし即其像を刻して之を當
 
 社の殿内に納む、賊逃くるに迷ひて這ひて走る故に又這原といふと、叉大海人皇子大友皇子と御
 
 軍の時大海人皇子當社に祈願し勝を得て天皇に立ちたまふ、後當社へ参拝奉納のことあり萩原
 
 の人民は多く上萩原及び吉田高田共に下萩原上方にあり等に住居せしが下萩原は同地方に比して大に平
 
 坦に属し且宇陀川に沿ひて便宜亦少なからざるを以て自然下萩原に移住す可き傾をなし隨ひ
 
 て同地方繁昌を希望するより乃ち墨阪神社を天の森より下萩原字天野へ遷せしものなり、然れ
 
 ども天の森は固より靈跡に属せるを以て本社迂座の後更に小祠を建て上の宮と稱せる、其造營
 
 正遷宮等は毎に本社造營の餘材を以て經營すべき慣例とせり、其後上萩原不作打續き災難又少
 
 なからず即ち天の森小祠を字堂の上に遷祀し以て同地鎮守の社となさむと欲し之を墨阪神社
 
 々僧教恵に議る、教恵卜して曰く神意亦遷上を望み玉ふと、所謂堂の上は天の森を距る数町上に
 
 あり是に於て急に其地に迂祀す今の天神々社なり、時に天保十年なりとす、當地に古頭屋新頭屋
 
 と稱する団体あり之の二団体によりて宮座なるものを組織して墨阪神社一切の祭事を管掌す
 
 而して古頭屋は多く上萩原にあり新頭屋は悉く下萩原にあり、又古頭屋に鍵元なるものありて
 
 神扉の開閉を掌る。
 
  神並木町神の木阪、往古は天の森より南方へ数町の間並木原なりしを以て神並木町神の木阪
 
 の字を存せり。
 
 天野 天富命の邸趾にして境内の老杉は此の命の種植する處と傳ふ。
 
 仮屋殿 仮屋殿は天の森の附近の小丘なり往昔神式天皇賊と戦ふや此處に陣屋仮御殿を築き
 
 諸神と賊を防禦せし處なりしと云ひ傳へ今尚其名を存せり、近頃(明治四十一年二月中)発見せし古記も

 亦之を証明せり。

 明神松 字天野天の森的場トウベに古松あり之れ天富命の手植する處にして之を伐採せは災
 
 厄に罹るとし里人恐れて神木と稱す。
 
 三ツ石 字西高田又中屋敷と云ふ處に三個の大石並伏す古来相傳ふ神武天皇天の森に於て天
 
 神を祭り祭器を此地に埋みたまい石を以て標としたまへりと。
 
墨阪神社祭典(墨阪神社條下参照)
 
 舊儀、當社もと神武天皇鳥見山靈畤の舊蹟字天の森の地に鎮座ありしを以て毎歳祭禮の前夜神
 
 興天の森へ渡御安座の式あり云云。
 
 後御式、往古より毎歳四月一日夏祭俗に此を古祭と稱すとて崇神天皇九年より執行一般神祭に同し毎歳
 
 九月二十八日秋祭俗に之を新祭といふ執行は其渡御式にて二十七日宵宮本社より天の森御旅所へ神輿
 
 出御其御順序は云云。
 
 右は寶徳元年頃より更に文政九年より再興執行せり。
 
 (中略)
 
  「天之森」附近現時耕地なりと雖も太古に於ては幽雅高壮の山中なりしは實地に就きて首肯するを
 
得べく加ふるに彼の天の森に對する古来幾多の傳説あり斧斥之れに入れば欠損災厄の災ありと云
 
ふ。
 
 一説あり天の森より約十町鳥見山頂上より稍下りたる處鳥見池のある邊りに平原あり高一間餘
 
周囲五十間餘の土壇あり南方に同高に長さ数間に渡る土壇ある東方は鳥見池にして圓形土壇の一
 
部を欠く池の北方古松あり小祠を存す、祠下流泉あり小祠の邊りに巨石あり、説をなすもの、曰くこれ
 
高祖天神を祭り給ふの處なりと、又解するものは日本書記事跡抄及釋日本紀の文意により此の土壇
 
の在る處は天神を祭り給ふの處にして下方天の森は地祇を祭り給ふ所なるべしに又一説と云ふ可
 
し、(後略)
 
 
 
 
 
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